リフレクソロジーの歴史

リフレクソロジーの歴史・・・①

リフレクソロジーの歴史、特に近、現代の歴史は、

1917年に発表されたアメリカの耳鼻咽喉科、外科の医師

ウイリアム・フィッツジェラルド(William Henry Hope Fitzgerald)博士が

エドウィン・F・バアーズ(Edwin F・Bowers)博士との共著の

「ゾーンセラピー」(区帯療法)という本から始まる。

                                                

フィッツジェラルド博士は痛みをコントロールし、麻酔効果を得られる、

何か別の方法はないかと模索していた。

当時外科医が用いる唯一の麻酔方法は、クロルホルムだけだった。

鼻と口を覆うマスクを用いていたという。

液状のクロロホルムが、患者が意識を失うまで注がれるこの方法は、

非常な危険を伴うもので、患者の多くが、クロロホルムの量が多すぎたり、

呼吸器に影響して肺炎を起こしたりして命を失っていた。

                                                

博士は身体のある部分に与える圧力が、他の部分の機能に影響を

及ぼすことに気がつき、手の指先を金属のクリップではさみ、

指の関節をゴムバンドで縛ることで、顔面と首に麻酔効果を得る

ことに成功した。

                                             

博士は、身体の各部分は相互に影響しあっており、

足の一点に圧力を加えると、そのゾーンに含まれる足から脳までの機能、

器官全てに影響を及ぼすと確信した。

「相対応反射」(右手の肘は、右足の膝と関係しているetc.)は、

このゾーン理論に基づいている。

                                              

博士は著書「ゾーン・セラピー」の中で以下のように述べている。

「手足の末梢神経について明確に解明されれば、

ヒーリングの分野の偉大な突破口となるだろう」

                                                  

1917年以来、多くの専門家たちが、フィッツジェラルド博士の

発見について研究するようになった。

1919年にはジョセフ・セルビー・ライリー(Jseph selbeyRiley)博士が

「簡単なゾーン療法」という本を書いている。

このライリー博士の助手に理学療養師の

ユナイス・イングハム女史がいた。

                              

このユナイス・イングハム(Eunice Ingham)女史(1879-1974)こそが、

リフレクソロジーの創始者である。

                              

身体の解剖学的構造と足に存在しているエネルギー・ゾーンが

相互に関係している事を明らかにし、足には全身を投影する

「全身の反射ゾーン」があることを発見した。

(アメリカに来た漢方医にヒントをもらっている。次回書きます。)

チャート(反射区図)を作り、圧力を変化させながら押す、

効果のある手技も確立したのである。

イングハムの反射区図

「ingham_foot_chart.jpg」をダウンロード

                                 

1938年に「足は語る」(Stories the Feet Have Told Thru Reflexology)

という本を書き、これが足の反射区療法の原典となっている。

Reflexologyという言葉の出発点である。

                       

彼女はセミナーをアメリカ、ヨーロッパ各地で開き普及に努めた。

1974年に亡くなり、姪のオイセピア・Bメッセンジャーと

甥のドワイト・Cバイヤーズらが受け継ぎフロリダで

国際反射学研究所を開いている。

ヨーロッパの彼女の弟子には、ドイツのハンネ・マルカート、

イギリスのドーリン・ベイリー、スイスのヘディ・マザフレがいる。

ReflexologiaというサイトではDiscipulos de Eunice Ingham

「ユナイス・イングハムの使徒(弟子)たち」として上記三人が紹介されている。

http://www.ecovisiones.cl/ecosalud/terapias/reflexologia.htm

全てはイングハムから始まり、続いているのである。  

                                         

1984年から、官有謀氏の足心道に続いて若石健康法の一員として

リフレクソロジストの仲間入りをした私だったが、

若石健康法にどっぷりと浸かっていた頃には、

教わったリフレクソロジーの歴史やルーツについて、

ほとんど疑問に思うことはなかった。

当事者は自分たちの都合の悪い事には意識、無意識にかかわらず

目をつぶりやすいものである。

                              

官氏は強気の彼の性格もあり、当初から彼の足心道(官足法)は

「三十年の研究と、施術による研鑽を重ねてきた、

東洋医学の原理にもとづいた中国足心道の秘術」であり、

彼が始めたものであると言い切っていた。

後に、国際若石健康研究会との間に、

「日本での普及活動を始めるに当たり、官氏に一任する」

との覚書があることが分った。

                                       

官氏の反射区図表や、手と足の相対応図は、

ヘディ.マザフレ女史の反射区図表、相対応図のまるでコピーである。

面白い事に、反射区の番号までが全て同じである。

                                           

国際若石健康研究会の反射区図表、相対応図、

反射区の番号も同様である。

                                           

ヘディ・マザフレの反射区図表

「hedi_masafret1.JPG」をダウンロード

「hedi_masafret2.JPG」をダウンロード

「hedi_masafret3.JPG」をダウンロード

「hedi_masafret4.JPG」をダウンロード

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官有謀氏の反射区図表

http://www.kansokuhou.com/4_img.html                                              

国際若石健康研究会の反射区図、相対応図

http://www.geocities.jp/elfrente1991/jyakuseki2                                           

若石健康法では、若石神父はヘディ.マザフレ女史の、

独語版「GESUND IN DIE ZUKUNFT」

英語版「GOOD HEALTH FOR THE FUTURE」

という本と1978年に出会い、

独学で勉強して自分のリュウマチを克服したと言っている。

                                              

神父は1980年頃に「病理按摩」という本を出しているが、

前述のヘディ・マザフレの「GOOD HEALTH FOR THE FUTURE」

の翻訳本である。これが台湾での一大ブームの始まりである。

                                          

現在は神父を担ぐ団体は数多くあるがその中の一つ

呉神父新足部健康法研究会(若石館)のホームページ

http://www.hm3.aitai.ne.jp/~jakuseki/j-data/profiles.htm

では、神父は後に一時スイスに戻りヘディ.マザフレ女史の

リフレクソロジー・スクールで直接勉強したことが書いてあり、

始めた当初の痛すぎる施術を反省し、

ソフトな方法に転換したとのことである。

                                       

神父は2003年に自叙伝「知足常楽」を出版したそうだが、

私はまだ読んでいない。

おそらく日本語にはまだ翻訳されてないと思う。

歴史の真実が分るかもしれない。読んでみたいものだ。

                                       

リフレクソロジー関連の書籍やホームページでは、

神父のことを書いてあるものは数多くあるが、

ヘディ.マザフレ(Hedi Masafret)については、記述の少ないのには困った。

イングハム女史の直系なのに、

「スイス人の看護師で、宣教区の看護師として中国に赴任した事があり、

そこで中国伝来の足部按摩を研究した。」などの説が多いのには呆れる。

自分たちの都合のいいように歴史を曲げられてはたまらない。

国際若石健康研究会の「源流譜系図」は以下のようになっている。

http://www.rwo-shr-health.com.tw/method.php?id=4

ヘディ・マザフレは東洋医学の系統になっている。

                                                   

いずれにしても私のリフレクソロジーはイングハムからマザフレへと

続く流れにあることを、素直に認識して進むだけである。

                             

参考資料・・・・・・吉元昭治・リフレクソロジーの歴史

       ・・・・・・Ann gillanders フレグランスジャーナル講演資料

      ・・・・・・他

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リフレクソロジーの歴史・・・②

リフレクソロジジーの歴史①では、

「ウイリアム・フィッツジェラルド博士~ユーニス・イングハム、

~ヘディ・マザフレ~若石神父」というリフレクソロジーの

歴史の流れを書きましたが、以前、同じ内容のことを明生館塾の

武田塾長のブログ「亜美之介のツボ探検」にコメントしました。

その時の武田塾長のブログの内容を紹介します。

「0729.htm」をダウンロード

 

現、近代のリフレクソロジーはアメリカで生まれ、ヨーロッパに

伝わり、台湾を経て東洋に広まった。

台湾式、中国式と言われている東洋のリフレクソロジーも、

東洋で生まれたものではなく、アメリカにそのルーツがある。

しかし東洋医学の影響は受けていたのである。

生みの母ユーニス・イングハムが影響を受けたその人だ。

 

1998年11月4日、今からちょうど10年前に

フレグランスジャーナル社のcreabeaux編集部主催の

セミナーが日本で開かれた。(セミナーの小冊子が私の手元にある)

セミナーのタイトルは「リフレクソロジーの実際知識」、

講師は、アン・ギランダース女史だった。

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アン・ギランダース女史は、1965年より医療秘書として勤務した後、

1973年、兄トニー・ポーター氏の影響を受け、

兄が学んでいたフロリダの国際リフレクソロジー学院

(インターナショナル・インスティチュート・オブ・リフレクソロジー)で学んだ。

近代リフレクソロジーの創始者ユーニス・イングハム女史の甥

ドワイト・バイヤーズ氏とともに研鑽をつみ、

兄とともに国際リフレクソロジー学院の教師として働いた。

1979年、学院から指導者の任命を受け、イギリス連邦サイドの責任者として、

ロンドン、マンチェスター、スイス、パリ、イスラエルなどに

トレーニング・スクールを設立した。

1986年にブリティッシュ・スクール・オブ・リフレクソロジーを創設、

講演当時は校長であった。

著書に「Reflexology,the Ancient Answers to Modern Ailments」

     「Reflexology-The Theory &Practice」

     「Reflexology Step-by-Step]   他

 

日本での講演で、

「リフレクソロジーの歴史の概要」というテーマの中で

以下のように述べている。

 

 『リフレクソロジーが脚光を浴びるようになったのは、1937年の事です。

物理療法士であったユーニス・イングハムの業績により、

リフレクソロジーは広く知られる補足医療となったのです。

ユーニスはアメリカのセント・ピーターズポロにあった整形外科の

大病院で物理療法士をしていましたが、あるとき漢方医のチームが

加わり、彼女にフット・チャートを示したのです。

それは今日我々が目にするものと同じようなものでした。

それらのチャートは非常に古いもので、羊皮紙に描かれており、

医師たちは、その図がいかにして、数世紀に渡って家族に代々

伝えられたかを語り、また、足は身体を反映する鏡であり、

身体のどこかに不調があると、足の関連部位が敏感に反応する

という考えを教えられながら育ってきたことを語ったのです。

足がいかに身体に反映しているかを知り、ユーニスは感動しました。

親指は頭を、足の外側は肩を、内側は背骨を反映している、という具合です。

医師たちは、身体のどこかに障害があると、

それに関連する足の部位に圧力を加えたときに、

敏感に反応すると説明しました。

それによって、不調の箇所を知ることができるのです。

敏感な部位を圧すことで、刺激が起こり、

身体は自動的に炎症や痛みを緩和させて、

神経および血液供給を促進し、身体機能を正常化させるのです。』

 

ユーニス・イングハムの直系のアン・ギランダース女史が、

講演でこのように述べているのである。

これは、イングハムから伝えられた真実に違いない。

 

「全てイングハムが独自に発見、発想しリフレクソロジーを確立した」

と述べてもいいような立場にあるギランダース女史や、

イングハム直系の人たちが歴史を歪曲しないで、正直に伝えているのである。

 

東洋医学との接点を持ったのは、

ヘディ・マザフレではなく、創始者イングハムである

 

 

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