足つぼ(リフレクソロジー)との出合い

足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・1

本ではリフレクソロジーはここ10年余で、瞬く間に普及し、専門店のみならず、整体、カイロプラテックの施術院、エステ、整骨院までもがメニューに取り入れ、観光地の温泉ホテルなどでもお風呂の近くに足つぼコーナーなどがよく見られます。

 


10年位前から英国式リフレクソロジ-などのスクールビジネスが盛んになり、世の中に多くのリフレクソロジストを送り出した結果です。

 

 

 私がリフレクソロジーと出会ったのはたしか1984年のことだと思います。

 


当時健康機器の販売会社で営業部長をしていました。

 


シェイプアップローラーというフットマッサージ器が、1年ほど前から良く売れるようになり、スーパー、デパートに販売員を派遣して体験コーナーでの販売が、軌道に乗ってきたところでした。

 

 

ある日会社に電話があり、責任者を出せと言うのです。

 


クレーム電話ではないかということで私が代わりました。

 

 

「あんたとこで売てるキカイ、私考えたのと同じ」「売り方ヘタクソ、私教える、会いにきなさい」明らかに日本人ではないと思われる言葉使いで、それでも自信たっぷりの語調が伝わってきました。

 

 

好奇心の強い私は、指定された恵比寿のビジネスホテルにすぐ出向きました。

 

 

やっと探し当てたのは外国人の長期滞在用だと思われる質素なビジネスホテルでした。

 

玄関にある応接テーブルで待っていたのは、やせて眼光鋭い60才位のの男性でした。 

 


官有謀氏との出会いでした。

 

 

官有謀氏は若石健康法の教本を見せて、「この本、私書いた」というのです。

 


その本には「官有謀訳」とありましたが、「国際若石健康研究会」が出したものでした。

 


たずねると、「国際若石健康研究会と一緒に研究したのだ」とのことでした。

 

 

「1年半前から日本で足心道の普及を始めた。

 


政界の有力者が応援してくれている。」

 

誰かと尋ねると、安倍晋太郎元外務大臣とのこと、大物なので驚きました。

 

「台湾の日本代表部の偉い人の紹介で、安倍先生の足を揉んでいる、彼の健康を回復してあげた。




後援会の集まりで何回も講演した。」と言う話でした。

 

 

シェイプアップローラーは、その名の通り、痩身美容機として的場電気製作所という会社が開発したものでしたが、試作商品として展示してあったのを足の健康機として私たちが販売したところ非常に良く売れ始めたものでしたが、バックボーンになる健康法の理論は寄せ集めで、本屋でそれらしい本を見つけては販売トークを作り、販売員を教育していたのです。

 




官有謀
氏の足心道(後に官足法に変更)には非常に魅力を感じました。

 

 

半年後には官有謀氏は高給で会社と顧問契約を結び、恵比寿に足心道相談室を提供され、本格的に足心道(台湾式、後の官足法)の普及を開始したのです。

 

 

そして、その半年後、会社の紹介した文化創作出版社によって、ベストセラーになった官有謀著「足の汚れが万病の原因だったが発売されたのです。

 

 

第一次足の健康法のブームの始まりでした。

 


続きは湧泉の足つぼ(リフレクソロジー)2で述べていきます。

 

2008/04/17                                        

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足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・2

足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・1を書いてから

 

かなり長い間ご無沙汰してしまいました。

 

 

さて先述の官有謀氏の紹介ですが、1927年台湾生まれ、

 

終戦まで日本本土で軍務につきPhoto

帰台後、師範学校を卒業、音楽(バイオリン)の教師を務めた。

 

国際若石健康研究会と出会い、リフレクソロジーを研究する。

 

国際若石研究会側では、第一期生だというが、

 

本人はそのことはあまり語りたがらなかった。

 

昭和57年再来日「足心道」(後に「官足法」)(柴田氏の足心道本部よりクレームが入り後に官足法に変えた)の普及と指導、テレビ、雑誌、全国津々浦々の講演会など、精力的に活躍した。

 

著書「足の汚れが万病の原因だった」は170万部を超すベストセラーになった。

 

観光地などの土産店でよく見る「足心棒(後にグリグリ棒または、あんま棒)」

 

の考案者でもある。

 

 

 

 

「足の汚れが万病の原因だった」をベストセラーにしたのはローラーの販売が大きく貢献した。

 

なにしろ全国各地の400人もの販売員たちが、ローラーを買ったお客にサービスで贈呈した。

 

お客に配った数は月に1万冊にもなったのだ。

 

出版されたとたんに全国各地の本屋さんで、月に1万冊も注文があるのだからほとんどの本屋さんの1等場所に置かれるのは当然だ。

 

 

 

官有謀氏からは私も何度か直接施術を受けたが、とにかく痛かった。



汗びっしょりになるほどである。

 

ある時、会社の命令により「地獄の特訓」と呼ばれる有名な研修に参加していて血圧が190-125にまで上がり、医者に研修を中断して東京で治療せよと言われ、自宅に戻った。



そこに、血圧計を持った会社の人とともに官有謀氏が現れた。

 

「血圧下がる、足出しなさい」とすぐに私の足を揉みだした。

 

50分位で揉み終わり、すぐに血圧を測ったが、下がっていない。

 

官有謀氏は「1時間してもう一度測りなさい」と言ってすたすた帰っていった。

 

横になって1時間後に半信半疑血圧を測ってみると120-78。

 

妻と二人で本当に驚いた。

 

足つぼの効果を身をもって体験したのである。

 

その頃は「あんなに痛くしないと効果が無いんだ」と本気で思い込んでいた。

 



今は湧泉の「足つぼ」は痛くない

 

痛すぎるのは良くないだと解ったからだ。

 

痛い施術は心身の緊張をもたらし、交感神経優位になるのが欠点だ。

 

ではなぜ痛い施術で血圧が下がったのか?

 

施術の終わった後、痛みから解放された安堵感や緊張がとれた後の反動などで、副交感神経が優位になり、血液循環を促す効果や、血圧を下げる効果があるのだと思う。

 

しかし血圧の高い人に痛すぎる施術をするのは危険である。

 

施術中には血圧が上がるからだ。

 

では続きは後日に!!!             2008/05/05

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足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・3

足心道相談室の展開

 

官有謀氏とともに「足心道」を普及する為に会社は全国の支店、営業所に付設して「足心道相談室」を展開した。

 

2年で40箇所にもなった。

Ph_anmabo

 

教育のために恵比寿の官氏の事務所に男性営業社員(あまり売れない)を派遣して指導員(施術者)として教育した。

 

 施術は手技とあんま棒の併用だった。

 

全国のデパート、スーパーで「足心道」の理論をもとに足もみローラーを販売していたので、販売員はユーザーへのアフターサービスとして、ローラーが売れると(売る為に)、積極的に「足心道相談室」へお客を招待したのだ。

 

健康に不安を持っている人がほとんどだから足もみ健康法を体験する為に熱心に通ったのである。

 

 

当時1986年頃は「足もみ」で代金を頂くことは、違法だと思われていたので施術料金は無料だった。

 

指圧、按摩、マッサージ、柔道整復師などの国家資格がないと施術代金を貰うことは出来ないと思われていたのである。

 

実は1960年に最高裁の判決が出ており、「手技を法律で取り締まることは、職業選択を保証した憲法に違反する」という内容のものだが、一般的にはまだ良く知られていなかった。

 

今のように国家資格者以外のリフレ、エステ、整体などが隆盛になるのは、1990年代後半のスクールビジネスブーム以降である。

 

相談室の売上は相談室で売れたローラーや足もみグッズ(棒、足ふみ板、クリーム、反射区図表など)や、その他の健康商品などの代金などだった。

 

足を施術しても代金を取らないものだから、お客はその代わりに指導員の勧めるまま商品を購入したり知人を紹介して、初めのうちは結構売上を上げる相談室があった。

 

しばらくしてデパート、スーパーからクレームが相次いだ。「勝手にお客を相談室に誘うのはまかりならぬ」と言うことで、結果集客は落ちた。

 

後に会員制にして、自分や家族のための足もみ法を教える健康講座などで料金をもらうシステムが始まったが、会社の思うようには受講者は増えなかった。

 

自分で揉むより相談室へ行って施術してもらう方がずっと楽で、気持ち良かったのである。

 

また、指導員と呼ばれていた施術者たちも、健康講座の講師であるより、施術することを選んだ。

 

2,7000円の講座料金をもらい、会社に内緒で実は「7回分施術の回数券」とする方法が指導員間で密かに広まり、健康講座を推進する会社には講座入講者として報告していたのである。

 

面倒くさい健康講座の運営が苦手であったばかりでなく、施術をすることには別の魅力があった。

 

先生と呼ばれ、感謝されるたびに、まるで自分が特別の能力をもった施術者であると思い、ある種の優越感、満足感をもったのである。

 

 

 

 

 




施術の成果に喜びを持つのは良いことだが、

自分の力を過信してしまう施術者が多かった。

 

良い武器を手にした者が、自分に技術や能力があるかのように錯覚したのである。

 

会議の後の酒席などでは自慢話が飛び交った。

 

中には自分には超能力があるかの様に言い出す者までいた。 

 

続きは次回をお楽しみに!!!                        2008/05/23

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足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・4

国際若石健康研究会との出会い

 

1986,7年頃会社の幹部10名ほどで台湾へ旅行した。

 

先に帰台していた官有謀氏の案内で社長他2,3名が、国際若石健康研究会を表敬訪問したのが、最初の接点だったと思う。

 

私は別行動をしていたので訪問していない。

 

国際若石健康研究会は、1982年に陳茂雄創会人,陳茂松執行会長の兄弟によって設立された。

 

現在は陳茂松執行会長が運営しているが、設立してしばらくは、末弟の陳明仁氏も加わり、兄弟3人が中心になって運営していた。

 

設立のきっかけは、呉若石神父がイスラエルに赴任するので、若石健康法の研究と普及を陳兄弟に託したと聞いている。

 

現在は呉若石神父を最高顧問とする団体や会社は、数多くありその数は今私にはわからない。

 

神父は聖職者なので、若石式のリフレクロジーを普及するところには、寛大な姿勢をとっているのだろう。

 

陳兄弟の末弟である陳明仁氏も兄と袂を分かち、中華足部反射区健康法協会(足健法)を1991年に設立し、呉若石神父を最高顧問に迎えている。

 

国際若石健康研究会は1988年に第1回の世界大会を、台北の円山大飯店で開いた。

 

日本からも会社の10数名が官有謀氏とともに参加し、88

第2回の世界大会を東京で1990年に開催することを委託された。

 

この時点では日本での活動は官有謀氏を中心とする足心道(官足法)の普及であり、若石健康法は 遠くの親戚の様な存在だった。

 

1989年の事だとおもうが、大事件が起きた。

 

「足の汚れが万病の原因だった」が大ベストセラーになり、テレビ出演、健康雑誌などで、一躍有名人と、なった官有謀氏にある集団が接触したのである。

 

日本ではパイオニア的な存在だった、アルカリイオン浄水機を開発した会社の乗っ取りに成功した集団が、「足もみのあとで必ず白湯を500cc飲まなければいけない」と唱えていた官有謀氏とローラーの販売が軌道に乗った

 

私のいた会社に目を付けたのである。

 

官有謀氏に取り入った彼らは、都内の一流ホテルの豪華なスイートルームを事務所にしていた。

 

官有謀氏の執拗な頼みなので、社長と私、役員の一人の3人でそのホテルの部屋を尋ねた。

 

案内されて3人掛けのソファーに座ったのだが、そのソファーを取り囲むようにして、黒っぽいダブルの背広を着た厳つい男たち4,5人が椅子にすわったのだ。

 

我々の前にはテーブルもなく、異様な雰囲気だった。

 

しばらく待たされて、奥のドアから出てきた会長とよばれた人物は、我々から7,8メートルも離れたデスクにすわって遠くから我々を見ているだけだった。

 

3人を取り囲んでいる黒服の中の一人が、ほとんど一人で話をしていたように記憶する。

 

話の内容は、「水の機械を販売してくれ。官氏とは話がついている。ローラーとの抱き合わせの販売が良い。ローラーが月に1万台売れているとのこと、水の機械も同じ台数売れるはずだ。今すぐ返事してくれ」と言うことだった。

 

我々は「ローラーの販売はデパート、スーパーでの販売がほとんどで、足の健康法の講演会や相談室で売れているのではない。親会社があるので、勝手な仕入れは出来ない。即答はできない。」と返答した。

 

会長という人物が、「前もって聞いていたことと話が違う。再度連絡する」と言い、我々は退席した。

 

急いでホテルを出ると、ほっとしたのと、驚いたのと、何者なのかと言う不安、官氏のことの心配などが混ざり合い、顔を見合わせてため息をついた。

 

会社に戻り すぐに調査の手配に取り掛かった。

 

調査の結果は2.3日で明らかになった。

 

会長と言う人物の過去の前科が分ったのである。

 

詐欺事件、刑事事件、暴力組織との関係など・・・

 

官氏への説得は容易であるかと思われた。

 

しかし ことは簡単には進まなかった。

 

「過去の事は関係ない。又悪い事をするとは限らない。自分が良いと思ったから進めたのだ。お前たちの会社でやらないのなら 俺は、お前たちと手を切る」

 

八方手を尽くしたが、官氏は首を縦に振らない。

 

我々は官有謀氏との別れを決断しなければならなかった。

 

官氏について会社を離れた社員もいた。

 

対策会議のメンバーでもあった幹部も官氏に付いたのである。

 

N氏は後に一派を立ち上げる、M氏は官足法の重鎮である。

 

後になって思うのだが、我々は大変な事だと考え、官氏にせまるように

 

説得を試みたのだろう。

 

息子のような年の連中に自分のミスを大騒ぎされて、プライドの高い官氏の癇に障ったのではないかと思う。

 

その後官氏が前述の水の機械を積極的に扱ったとは聞いていない。

 

私の尊敬する指圧の大家増永静人師の著述の中に「虚はあまり早く圧しても、はっきりつかめません。その上に三指をおいて持続圧を加えながら反応をみます。



虚は内部に固いシコリがあって、これを不用意におされると、
いわゆる虚を衝かれた痛みが全身にひろがるので、これを警戒して筋性防衛があります。」とある。

 

我々はまさに虚を衝いてしまったのではないだろうか?

 

会社は提携の相手を国際若石健康研究会に乗り換えた。

 

翌年の東京での世界大会の準備も進んでいたので、国際若石健康研究会も喜んで提携した。

 

その当時、若石健康法は日本では全く知られていなかったが、相談室を若石センター(21若石センター)に切り替え、陳茂松執行会長の日本各地での講演会、社員の台湾本部への教育訓練を年数回(一回12,3名ずつ2週間)など、莫大な費用をかけて取り組んだ。

 

そして1990年の世界大会の時が来た。

2008/06/24

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

 

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足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・5

1990年若石健康法東京世界大会



第2回目の世界大会を東京で運営する事になった会社は、若石健康法を日本でアピールする最高のチャンスととらえた。

 

 

 官有謀氏の足心道から若石健康法に乗り換えたばかりなので、足の健康法を販売の拠り所にしている営業社員や、21若石センターと名を変えた各地の相談室のお客様、センターを支援してくれる有力者に、若石健康法こそが、本家本元であり、国際的な広がりを持つ団体であることを確信してもらう最高の機会だと位置付けたのである。

 

 

 

また台湾の本部や、各国支部に対しても確固たる地位を確立する必要があった。

 

それにスーパー、デパートでの健康機販売の拡大や信用の増大にも大会を活用することを考えた。

 

 

各地の支店営業所に号令をかけ、参加者を集い、毎年恒例の社員大会も世界大会と同時開催、取引先のスーパー、デパートのバイヤーや幹部を積極的に招待した。

 



結果莫大な費用をかけることになった。

 

 

 

 現在は足健法の日本代表である氏は社員の中から準備委員長に任命され大会運営の企画を担当した。

 

 

ディズニーランドのある浦安のNKホールで、オープニングセレモニー、シェラトンホテルで学術検討会とウェルカムパーティー、さよならパーティー、社員大会等が行われる事になった。

 



国際若石健康研究会本部の要請で海外からの参加者を、300人以上にする為参加費用の援助の要請も受けた。

 

 

 

ところが、大会直前になって、大きな問題点が出てきた。

 



NKホールでのオープニングセレモニーへの参加者が、目標5,000名に対し2,000名にも満たないのである。

 



全社員に働きかけ家族、友人などを急きょ動員した。

 



参加者リストは約3,000名になった。
Photo

 



NKホールのは6,300名が定員であったので、2階席を封鎖し、どうにか形だけは保つ事が出来た。

 

 

 

もう一つの問題点はマスコミへの根回しだった。

 



案内状は送ったものの、詰めが甘く、取材に来てくれるところは皆無であった。

 



直前の働きかけではどこも動かない。

 

 

莫大なお金をかけて開催するのに社会に対するアピールが出来なかった。

 



非常にもったいないことであった。

 



マスコミ対策の担当者はしばらくして会社を去った。

 

 

 会場が真っ暗になり音響とともにレイザー光線が、駆け巡って、正面のスクリーンに青い地球が大写しになり、数分の間、「若石健康法の愛は人類を救う」をテーマにしたイメージ映像が映り続けた。

 

オープニングセレモニーの始まりである。

 

感動的デモンストレーションが終ると、再び会場が暗くなり、しばらくしてスポットライトは正面を照らした。

 

大会議長を中心にして各国の代表が、ひな壇に並んだデスクに座っている。

 

 日本代表の席には私が座った。

 

こうして1990年若石健康法東京世界大会がはじまった。

 

 

 大会の初日は、NKホールでのオープニングセレモニーと90

 

シェラトンホテルでのウェルカムパーティ、

 

二日目は、学術検討会、三日目は、学術検討会とサヨナラパーティだったと思う。

 

 

 東京大会の特筆すべきはなんと言ってもWHO幹部のオブザーバー参加であり、若石健康法へのメッセージであった。

 

グンダー・リーベスヴァール博士(WHO執行委員会委員、オーストリア公衆衛生局総裁、医学博士)の代理人として参加したシーグリンド・ワインバーガー博士よりのメッセージは

 

 

「1、若石健康法の努力は、WHOの健康全般に於ける目標を

       実現するものです。

 

 2、人類は自ら責任を負って、自分で健康づくりを行うことが

 必要であり、またその力を励ましていくべきです。

 

 3、伝統医学と現代医学は、共同研究を通じて、より融合されて

 いくべきです。」

 

と言うものだった。

 




国際若石健康研究会と日本の事務局(会社)はこれを

 

 

 錦の御旗として最大限に活用する事にした。

 

 

記念の額(写真)を作り世界中の関係者に販売して、

 

国際的権威から認められたと、いまだにアピール

 

し続けている。

 

 

 

学術検討会は研究発表よりも、若石健康法のすばらしさを

 

たたえる体験発表や活動報告などが多く、あまり記憶に残るものがない。

 

資生堂のA氏の健康遊歩道の開発報告が目立ったように思う。

 

 

 ともあれ3日間お祭ムードで終始した。

 

最後に次回の開催国マレーシア代表に大会旗を渡して、1990年の東京世界大会は幕を閉じた。

 

 

 

 

大会のオブザーバーとして、3人のアメリカのリフレクソロジストがいた。

 

 

クリスティーン・イッセル女史バーバラ&ケヴィン・クンツ夫妻である。

 

私のハワイの友人H氏がコンタクトしてくれた3人をオブザーバー

 

参加してもらう事に、若石本部はあまり関心を示さなかった。

 

日本側の招待だということでOKをとり、3人を招くことにした。

 

 

 

クリスティーン・イッセル女史は当時カリフォルニアのサクラメントChristine_issel

 

 

に住みCouncli of Noth American ReflexologistsのAdministrator

 

として活動していた。

 

後にICR(International Council of Reflexologists)

 

を立ち上げ,世界的な組織の生みの親として第一人者として活躍している。

 

 

 


第1回のICRの世界大会
は1990年の9月29日にカナダの

 

トロントで開かれた事になっているが、このときにICRを

 

立ち上げたのではないかと、最近になってICRのホームページ

 

を見て思った。20080709_172417_0002

 

実は私と妻は東京大会への招待のお礼としてトロントの北米大会に イッセル女史から招待されたのである。

 

若石の東京大会とは違い、研究発表や、活動報告に終始した非常に質素な大会だった。

 

その時の開催は前述のCNARとRAC(Reflexology Association of Canada)の共同開催のように、その時もらったCommemoration of Friendshipに書いてある。



後になってこのときの大会がICRの第1回大会として、位置づけられたのではないだろうか。 

 

 

 ICRは1999年にハワイで7回目の大会を開いているが、その時には英国式リフレクソロジーの藤田氏一行、足健法のO氏、そして若石神父も参加したと聞いている。

 

(クリスティーン・イッセル女史を紹介しているホームページは以下)http://www.quantumreflexology.com

 

 

 


バーバラ&ケヴィン・クンツ夫妻
はニューメキシコ州のアルバカーキに住み30年以上もリフレクソロジーの研究と普及に活躍している。

 

1980年に出版されたThe Complete Guide to Foot Reflexologyを初めとして、十数冊に上る彼らの著書は18ヶ国語に翻訳され、世界30数カ国で発売されており、多くのリフレクソロジストのテキストとして読まれている。

 

日本でも1989年にThe Complete Guide to Foot Reflexology「完全ガイド・足のリフレクソロジー」として、フレグランス・ジャーナル社から発売された。

 

その訳者は日本におけるリフレクソロジーの先駆者として有名な五十嵐康彦氏(足のゾーン・セラピー/主婦の友者/1985の著者Kevin_and_barbara_kunz

である。

 

クンツ夫妻は、ハンド・リフレクソロジーの研究者としても有名で、多くの著書がある。

 

現在ヤフーのreflexologycommunityを主催しネットでも活躍している。(クンツ夫妻を紹介しているホームページは以下)http://www.reflexology-research.com/aboutus.htm 

 

 私はいまになって非常に残念に思う。

 

当時の自分が本物のリフレクソロジストでなかった事を。

 

リフレクソロジーを利用して利益を上げようとしていた会社の中心にいて、リフレクソロジストのふりをしていた事を。

 

会社も私も、世界大会でのアメリカからの3人との出会いを全く生かしてこなかった。

 

湧泉を開業して、お客様の足をもむ事を生業にしてきて改めて思う。                                    2008/07/22                     

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足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・6

若石健康法東京世界大会で日本代表を務めた後、私は若石健康法の事業本部長に任命された。

 

 

その名も21事業本部と云い、若石健康研究会、全国の21若石センターを束ねて、若石健康法のファンの集い21ファミリークラブを組織し、スーパー、デパートでの健康機器の販売部門とは別の安定した事業を確立するのが目的であった。

 

 

 21ファミリークラブの会員になると、年会費を払い、「ウォーク」と言う会員誌が送られてくる。

 


会員誌で啓蒙された会員は健康講座の受講や、商品の購入で、売上に貢献してくれるという構想だった。

 


会員誌ウォークの毎月の編集だけとっても、健康機器の販売会社の社員であったスタッフにとっては、当初は非常に大変な仕事であった。

 



後に編集の仕事は小さな企画会社でアウトソーシングすることになった。

 

 

 健康に不安があって若石健康法に頼ってきた人たちが、必ずしも、年会費を払ってまで会員になってくれるというものではない。

 


足もみ料金を取らないので、代金代わりに付き合ってくれるのである。

 

会社の思惑どおりにはなかなか会員数は増えなかった。

 

 

 それにしても、仕事の量だけは大変なものだった。

 



全国各地での講演会は台湾から執行会長を呼んで数十回も開催した。

 

通訳が入っての講演なので、間合いが難しくなかなか盛り上がらない。

 

官有謀氏の日本語での独特な講演とは比較にならなかった。

 

 

 

世界大会の翌年1991年には第1回の21ファミリークラブの日本大会を開いた。

 



若石神父はもとより執行会長、創会人他大勢を招待し、ソニーや資生堂の役員まで招待した。

 



マスコミ対策用に、テレビ番組の制作会社にビデオ制作を依頼した。

 

それが半年後大いに役立った。Photo

 

 

 

資生堂が開発した健康遊歩道が報道番組スーパータイムの特別企画に取り上げられたのである。

 

健康遊歩道は若石健康法に基づいて造られたものである。Photo_2

 

若石健康法の説明が詳しく報道された。

 

日本大会のビデオが大いに役立ったのである。

 

視聴者からの反響がすばらしく、今度は若石健康法そのものが、すぐに特別企画で取り上げられたのである。 Photo_3

 

 

 

 スーパータイムの企画構成はすばらしいものだった。

 

◇初めに安藤優子キャスターが研究会を訪れ、

 

足をもまれる場面から 始まり、痛さに悲鳴を上げる。

 

◇若石健康法の紹介を、日本大会でのビデオをつかい神父の挨拶、陳兄弟の紹介、大会の映像などから始める。

 

◇反射区図表を非常に詳しく説明する映像。

 

◇ソニーの東洋医学研究所の医師による、

 

胃の反射区を揉むことにより、注射で動きを止めた胃が、Photo_4

動き出すセンセーショナルな映像。

 

◇馬込ファミリークラブの活動と、会員による効果の体験報告。

 

◇明治鍼灸大学の教授の効果の解説など。

 

◇最後に安藤キャスター「自分で毎日行うことが大切」と締めくくる。

 

 

 反響はものすごく、3日間は問い合わせの電話が鳴りっぱなし、準備不足で満足な対応が出来ないほどだった。

 

それまでは、テレビで取り上げられても、バラエティ番組などでタレントの足を揉み、痛さに身もだえ、絶叫するのを面白おかしく放映するだけのものだった。

 

きちんと紹介された画期的な出来事だった。

 

 

 しかし「自分で毎日行うことが大切」トラウマになっていくのである。

 

                                        2008/08/09

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足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・7

1991年6月に私は台湾の国際若石健康研究会本部で、「足部反射学専業訓練理論及実習研修課程」いわゆる「専業訓練」を受ける事になった。

 

 

2週間の授業は朝8時半から夜9時まで、ビッシリの詰め込み授業だったが、

 

会社の業務を離れて、結構楽しい時間を過ごした様に記憶する。

 

 

中間の日曜日は休みで、10数人の仲間達と台北市内の観光をする予定だったが、土曜日の朝の授業中に、陳茂雄創会人から呼び出された。

 



何事かと思ったら、今から台南に行こうというのだ。

 

 

 日本のファミリークラブの役員をしている別府の温泉ホテルの社長から、手紙がきて、ワニの卵を調達できないかと言ってきたとのこと。

 


「あなた、ファミリイクラブの責任者、今日の授業出ないOK?今から一緒見に行くです。」と流暢な日本語で言われた。

 

 

 何が何だか分らないままに車に乗せられ、高速道路を一路台南へ。

 

車の中で、台南までは何時間かかるか聞いたところ、創会人は、

 

「急いで6時間、又はそれ以上、今夜、台南泊まりです。」と答えた。

 

台南まで時間はたっぷりある、少しずつ事情を聞きだした。 

 

 

 前回の日本からの専業訓練のメンバーの中にホテルの社長がいて、食事会の時に創会人が相談を受け、手紙のやり取りをした。

 


別府のホテルで運営している「ワニ地獄」のワニが少なくなり、ワニを調達するにも、ワシントン条約で規制が厳しく、なかなか上手くいかないので台湾から卵を運び、別府で孵化させる方法を考えたらしい。

 

その日夜になって台南にやっと着き、海鮮料理をご馳走になった。

 

 

 翌朝 市街からかなり離れた田舎の畑の中のワニ牧場を訪ねた。

 

 

質素な金網の柵で仕切られた牧場は、予想より狭く、金網の中には2メートルくらいの深さの堀と言うか、水の入ってないプール見たいな飼育場が数箇所あり、大きさによって分けられたワニが100頭あまり飼育されていた。

 


食用肉と皮革の生産が目的であるとのことだった。

 

 

 牧場主がここのを見せると言って、金網で上も覆っているプールに我々を案内した。

 

一目見て驚いた。

 

頭から尾の先まで10メートルはある巨大なワニが、金網越しに我々をじっと睨んでいたのだ。

 

牧場主が投げ入れた生きた鶏を、巨体を一瞬の間に翻して飲み込んだ時には、予想はしていたもののわずか数メートル先のすさまじい迫力にはさすがに背筋が凍りついた。

 



気持ちが悪くなり、創会人に頼んで早々に引き上げた。

 

 

 後日ワニの卵の輸入はうまくいかない事が分った。

 

 

台北に帰り着いたのは日曜日の夜、疲れてくたくただった。

 



残り1週間、研修も無事終わり,首席で卒業できた。

 

 

 

 陳茂雄創会人は私と同年輩である。

 

 

オーストリアに留学していたらしく、いつもチロリアンスタイルできめているダンディである。

 

アイデアマンで、若石シューズや足もみクリーム、八福板などの若石グッズの開発者であり、人懐こい、ひょうきんな性格だ。

 

国際若石健康研究会の実務は、弟の陳茂松執行会長に任せていた。

 

後に万能洗剤シーエナジーの会社を立ち上げ、研究会とは離れて活動している。

 

 

 この小旅行以来、創会人とはよき友人の間柄となり、訪台するごとに空港まで迎いに来てもらい、歓待を受けたものである。

 

創会人の友人に李三枝と言うご婦人がいる。

 



創会人との会食にはよく同席してくれて歓迎してくれた。

 

 

 4回目の訪台のときに、疲れていた私を創会人と李さんは李さんの自宅に私を連れて行ってくれた。

 

 

 

自宅で整体業を開業している李さんの御主人除さんは、大学で法律を専攻したインテリの施術師である。

 

 

 

私は中国語は全く出来ないので、つたない英語で除さんと会話した。

 



整体は日本の指圧と良く似ているとのことで、以前から指圧タイプのじっくりつぼを押してくれる施術が好みだったので期待して施術ベッドに横たわった。

 

 

 腕から始まる施術は一押しの時間がとても長く、物足りないくらいの力で始まりじわじわと圧が強まり、ズーンとした響きがとても心地良い。

 

すぐに半睡眠状態におちいり、うつらうつらの中で、目の奥に見える光の芸術を楽しんでいた。

 

一押しごとに変化するさまざまの色の光が、オーロラのように変化しとても心地良い。

 

ゆっくりしたと丹念な四肢の押圧に充分時間をかけていたように記憶する。

 

 

 2時間半の施術が終わり、もうそんな時間がたったかと思いながら、香りの良いお茶をいただいて、車で送ってもらいホテルに帰った。

 

そのままベッドで熟睡し、翌朝目覚めたときの爽快感!!!

 


それからは訪台するごとに除さんの施術を受けた。

 


湧泉で整体を始めたことに、大きく影響している。

 

 

 約10年後、明生館http://meiseikan.com)の武田師に施術を受けた。

 

 

感激した。同じ感覚を味わったのである。

 


以来武田師に師事している。 

  2008/08/25

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足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・8

Myweb1032008_2 1992年の若石健康法世界大会は、マレーシアのクアラルンプールで開かれた。

 

 

大会議長は呉星瑩(Geraldine Tay)さん、国際若石健康研究会設立以来の中心メンバーである。

 


国際若石健康研究会と同じく、1982年にマレーシア・シンガポールの分会を設立し、若石本部も一目置く存在である。

 

 

 道家の大家を父に持ち、マレーシアの中国系財閥に嫁いだ。

 



マレーシア道家学術研究院院長で、伝統医学博士でもある。

 



導引合十功(導引吐納法)という、ヨガ体操のような健康法の指導もしており、
何回も講演のため来日した。

 

 

神父とも直接のパイプを持っている。

 

 

若石本部以外にも世界各地のリフレクソロジーの団体と、コミニケーションを持っているようだ。

 



足健法の顧問にもなっている。

 

 

ここで少し脱線するが、このブログを書くのにNETで調べていたら、

 



偶然面白い記事を発見した。

 

 

 NO.6で紹介したケビン・クンツさんの8月4日のブログだ。

 

Reflexology for Life: Technique(http://footc.typepad.com/my_weblog/technique/index.html)

 

 

 

1番上にあるYou Tube-foot reflexologyをクリックすると

 

 

足健法本部が台北で行ったギネスブック入りの1008人足もみ大会の動画が見られる。(ギネスブックに載せて何の意味があるのかねえ?)

 


そして1990年の東京大会に招待されたことが書いてあるようだ。

 



テーマは「No pain ,No gain」 「痛みなくして効果なし」、とでも訳せばいいのだろうか。

 

 

内容は、痛くもむことへの批判だと思うが、1990年の東京世界大会で,

 



若石とクンツさんのリフレクソロジーの違いを質問されて、痛みのことを説明するのに、柔道と柔術を引き合いに出して苦労して説明した事などが書いてあるようだ。

 



若石の施術者から施術されて、痛いのに驚いたこと、片足だけで遠慮したことなどが面白い。クンツさんは、一貫して、強い痛みをクライアントに与える事を完全に否定してきている。

 

 

 英語とは何十年もご無沙汰なので詳しく説明できないのが残念だ。(誰か英語に強い人教えてください!)

 



前にも書いたが、今、湧泉でも痛く揉むことはしていない

 

 

すみません、脱線から戻ります。

 

 

東京大会を盛大に開催した事が、呉星瑩さんの大きな負担になった。

 

スタッフにも限りがある中で、その苦労は大変なものだった。

 

世界大会は前回の開催国のメンバーが、いろいろ手助けをするルールになっていた。

 

準備段階から出来る限りの協力をした。

 

私も開催1週間前から現地に入って準備の手伝いをした。

 

 

マレーシアの大会は振り返ってみても、東京大会に次ぐ規模で、内容もすばらしいものだった。

 



日本からも150名を超す参加者」を送り込んだ。

 

 

 第4回の世界大会は1994年にオーストリアのインスブルグで、開催されたが、私は参加しなかった。

 

質素なものだったと聞く。

 

会社の業績が落ち込んだ時期で、日本からも10名程度の参加だったと記憶する。

 

 

第5回は香港での開催だったが、1年遅れて1997年になった。

 

これには私は参加したが、参加者の大半が販売コンクール入賞の販売社員だった。



報償旅行をかねての数合わせの参加で、1日だけの出席、販売社員の観光の引率が私の役目だった。

 

 

第6回は台北に戻り2000年に開催された。

 

当時は九州の販売会社の社長をしていた。

 

学院の展開が進んでいて、若石部門からは外されていた。

 

会社からは参加を反対されたので、自費で参加した。

 

初めての夫婦での参加であった。

 

退職の3ヶ月前、若石との最後のお別れとなった。

   2008/09/05

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足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・9

日本における若石健康法は、2001年2月、会社の倒産によって一時挫折した。(倒産後しばらくして、社長夫人を代表者にして日本分会が再設立された)

 

 

健康機の販売が主業であった会社は、全国各地の支社を地域ごとの販売会社として分社化していたが、夢を持たされて頑張った各支社の幹部が抱いた分社前の期待に反して、分社とは名ばかりで、本社の各販社への管理は、以前の支社当時となんの変わりもないものであった。

 

 

 2000年1月、トップの経営方針(学院の展開等)にも不満をもった数名の販社長と幹部が、秘密裏に結託して、ライバルのメーカーの代理店を設立し、社員を引き連れて離反する計画が発覚した。

 

 

 決行前に察知して、手は尽くしたものの大きな打撃を受けたのである。

 

優秀な販売員を大勢引き抜かれ、得意先も奪われそうになった。

 

私は造反組のリーダーが、社長であった九州の販社の社長として福岡に赴任し、組織防衛の先頭に立った。

 

 

 体勢を立て直すために、やむなく辛いリストラを進めていた最中であるにもかかわらず、国際若石リフレクソロジー学院を設立して、スクールビジネスの展開に乗り出していた会社は、苦しい業績にもかかわらず、全国各地に学院の分校を次々に立ち上げたのである。

 

資金も人も足りない中での暴走だった。

 

 

 2000年10月、九州で無理を重ね、体調も崩していた私は、会社の方針についていくことが出来ず、退職の決心をした。

 



それから5ヶ月後社長M氏は自己破産を申請した。

 

 

 

退職後は、リフレクソロジーを含め、前の会社の仕事に関係あることからは一切遠ざかりたいと思った。

 



知人から建設土木資材の会社を作りたいと誘いがあり、総務部長として会社の設立に携わり、約2年間勤務した。

 



その会社も当初の話と違い、見切りをつけ退職した。

 

 

職安に通いながら、自分に出来る事、好きな仕事は何なのかを真剣に考えた。

 

 

リフレクソロジー、整体」が結論だった。

 

2003年1月、「足つぼの湧泉」開業、

 

五十五歳からの再出発だった。

 2008/10/02   

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足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・最終回

湧泉を開業してから5年半、施術者に徹して、多くのことを学ばせてもらった。

 

お客様にが1番、2番目に明生館の武田先生と、三水会の仲間たち、順位は付けられないが私のよきパートナー。

 

 

施術者に徹してみて、以前のこと特に若石健康法の歴史を改めて振り返ってみると、見えなかったものが見えてくる。

 

 

足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・6の最後で述べた

 



「『自分で毎日行う事が大切』というスローガン」について振り返ってみたい。

 

 

 


1.
官有謀氏との足心道としてのスタート以来、会社の本音は健康器(ローラー)の売り上げを伸ばすことであった。

 

若石健康法をセルフケアーの健康法として位置づけることは、自分で揉み続けることに困難がともなうことを分っていて、あるいは分ろうとしないで、ローラーの販売に結びつけるための確信犯的な方針であった。

 

 

 

若石センター(会社直営の足揉みサロン)を展開している頃に、対価をもらっての施術が違法でないと分ってからも、施術の有料化には消極的であった。

 



有料化に本気で取り組まなかったことは、サロンの事業に本気で取り組まなかったということである。

 

 

 

リフレクソロジストはクライアントに、対価に見合う施術、対価以上の施術と認めてもらうために、努力研鑽するのである。

 

 

 

台湾の若石本部も、自ら開発した愛心棒や踏み板などを、販売したいということがセルフケアーにこだわりを持ち続けることとなった。

 

 

 

愛好者の団体を作り、商品を売り続けたいという構想に縛られたM氏は、時代が変わってしまったのにもかかわらず、事業展開の優先順位を間違えてしまったのだ。

 

 

 


2.
リフレクソロジストの喜びは

 

クライアントに満足してもらうこと、自分の技術がお役に立てたということであり、商品を売る事ではない。

 



優秀なリフレクソロジストであればあるほど、施術の技術を磨き、効果を上げ、クライアントに満足してもらうことを志向する。

 

 

 

自分で毎日行うことが健康法として効果を出すことは否定しないが、根気良く効果が出るまでもみ続ける人はまれである。

 

 

 

私自身が5年半、施術者に徹してみて、痛感する事だが、優秀なりフレクソロジストが行う施術の効果は、セルフケアーとは全く違うものであり、全く次元の異なるものである。

 



痛くなく、しかし、深く浸透し、心地良い響きを与え、副交感神経を優位にし、拘束を取り去るものである。

 

 

 

当初からのセルフケアーの方針は、それにこだわるほどリフレクソロジストの技術向上が阻害されたのだと思う。

 

 

 3.RAJA(英国式リフレクソロジー)の設立は1996年7月であり、サロンであるクイーンズウェイの展開は1997年から始まった。

 



刺激されて会社は国際若石リフレクソロジー学院を設立したが人の受け皿となるサロンの取り組みを怠った。

 

 

 

サロンと言っても、私が思い描いたサロンは、会社として人を雇用しての運営なので、1人、2人で運営してきた過去の若石サロンとは全く発想を変えて、少なくとも、最低5,6人の女性の施術者のいる、好立地の路面店か、デパート内のテナントでのサロンである。

 

 

 

企画力は必要であったが、成功例はすでにRAJAが創りあげていた。

 



RAJAは同時進行でサロンの準備を行っていたと思われる。

 


後発でも、採算の取れるサロンの展開にもっと力を入れていれば、卒業生の受け皿となり、学院生の募集もうまくいっていたと思われる。

 

りフレクソロジストを志す人のニーズをつかめていなかったのだ。

 

 応募する人は、

 

「お客様に満足いく施術ができるりフレクソロジストになり、継続してリフレクソロジーを仕事としてできる」ことが目的であり、学院で学ぶことはあくまでも手段である。

 



授業という商品を売ることだけが先行してしまったのである。

 


当時、会社は、全国にデパートの口座を持っていた。

 



サロンに真剣に取り組めば大きく展開出来たはずである。

 

 

リフレクソロジストの心を持って事業に取り組み、急展開をせず成功パターンをあせらず育てあげていくことが必要だった。                                 2008/10/03    

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