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2012年6月 5日 (火)

足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・5

1990年若石健康法東京世界大会



第2回目の世界大会を東京で運営する事になった会社は、若石健康法を日本でアピールする最高のチャンスととらえた。

 

 

 官有謀氏の足心道から若石健康法に乗り換えたばかりなので、足の健康法を販売の拠り所にしている営業社員や、21若石センターと名を変えた各地の相談室のお客様、センターを支援してくれる有力者に、若石健康法こそが、本家本元であり、国際的な広がりを持つ団体であることを確信してもらう最高の機会だと位置付けたのである。

 

 

 

また台湾の本部や、各国支部に対しても確固たる地位を確立する必要があった。

 

それにスーパー、デパートでの健康機販売の拡大や信用の増大にも大会を活用することを考えた。

 

 

各地の支店営業所に号令をかけ、参加者を集い、毎年恒例の社員大会も世界大会と同時開催、取引先のスーパー、デパートのバイヤーや幹部を積極的に招待した。

 



結果莫大な費用をかけることになった。

 

 

 

 現在は足健法の日本代表である氏は社員の中から準備委員長に任命され大会運営の企画を担当した。

 

 

ディズニーランドのある浦安のNKホールで、オープニングセレモニー、シェラトンホテルで学術検討会とウェルカムパーティー、さよならパーティー、社員大会等が行われる事になった。

 



国際若石健康研究会本部の要請で海外からの参加者を、300人以上にする為参加費用の援助の要請も受けた。

 

 

 

ところが、大会直前になって、大きな問題点が出てきた。

 



NKホールでのオープニングセレモニーへの参加者が、目標5,000名に対し2,000名にも満たないのである。

 



全社員に働きかけ家族、友人などを急きょ動員した。

 



参加者リストは約3,000名になった。
Photo

 



NKホールのは6,300名が定員であったので、2階席を封鎖し、どうにか形だけは保つ事が出来た。

 

 

 

もう一つの問題点はマスコミへの根回しだった。

 



案内状は送ったものの、詰めが甘く、取材に来てくれるところは皆無であった。

 



直前の働きかけではどこも動かない。

 

 

莫大なお金をかけて開催するのに社会に対するアピールが出来なかった。

 



非常にもったいないことであった。

 



マスコミ対策の担当者はしばらくして会社を去った。

 

 

 会場が真っ暗になり音響とともにレイザー光線が、駆け巡って、正面のスクリーンに青い地球が大写しになり、数分の間、「若石健康法の愛は人類を救う」をテーマにしたイメージ映像が映り続けた。

 

オープニングセレモニーの始まりである。

 

感動的デモンストレーションが終ると、再び会場が暗くなり、しばらくしてスポットライトは正面を照らした。

 

大会議長を中心にして各国の代表が、ひな壇に並んだデスクに座っている。

 

 日本代表の席には私が座った。

 

こうして1990年若石健康法東京世界大会がはじまった。

 

 

 大会の初日は、NKホールでのオープニングセレモニーと90

 

シェラトンホテルでのウェルカムパーティ、

 

二日目は、学術検討会、三日目は、学術検討会とサヨナラパーティだったと思う。

 

 

 東京大会の特筆すべきはなんと言ってもWHO幹部のオブザーバー参加であり、若石健康法へのメッセージであった。

 

グンダー・リーベスヴァール博士(WHO執行委員会委員、オーストリア公衆衛生局総裁、医学博士)の代理人として参加したシーグリンド・ワインバーガー博士よりのメッセージは

 

 

「1、若石健康法の努力は、WHOの健康全般に於ける目標を

       実現するものです。

 

 2、人類は自ら責任を負って、自分で健康づくりを行うことが

 必要であり、またその力を励ましていくべきです。

 

 3、伝統医学と現代医学は、共同研究を通じて、より融合されて

 いくべきです。」

 

と言うものだった。

 




国際若石健康研究会と日本の事務局(会社)はこれを

 

 

 錦の御旗として最大限に活用する事にした。

 

 

記念の額(写真)を作り世界中の関係者に販売して、

 

国際的権威から認められたと、いまだにアピール

 

し続けている。

 

 

 

学術検討会は研究発表よりも、若石健康法のすばらしさを

 

たたえる体験発表や活動報告などが多く、あまり記憶に残るものがない。

 

資生堂のA氏の健康遊歩道の開発報告が目立ったように思う。

 

 

 ともあれ3日間お祭ムードで終始した。

 

最後に次回の開催国マレーシア代表に大会旗を渡して、1990年の東京世界大会は幕を閉じた。

 

 

 

 

大会のオブザーバーとして、3人のアメリカのリフレクソロジストがいた。

 

 

クリスティーン・イッセル女史バーバラ&ケヴィン・クンツ夫妻である。

 

私のハワイの友人H氏がコンタクトしてくれた3人をオブザーバー

 

参加してもらう事に、若石本部はあまり関心を示さなかった。

 

日本側の招待だということでOKをとり、3人を招くことにした。

 

 

 

クリスティーン・イッセル女史は当時カリフォルニアのサクラメントChristine_issel

 

 

に住みCouncli of Noth American ReflexologistsのAdministrator

 

として活動していた。

 

後にICR(International Council of Reflexologists)

 

を立ち上げ,世界的な組織の生みの親として第一人者として活躍している。

 

 

 


第1回のICRの世界大会
は1990年の9月29日にカナダの

 

トロントで開かれた事になっているが、このときにICRを

 

立ち上げたのではないかと、最近になってICRのホームページ

 

を見て思った。20080709_172417_0002

 

実は私と妻は東京大会への招待のお礼としてトロントの北米大会に イッセル女史から招待されたのである。

 

若石の東京大会とは違い、研究発表や、活動報告に終始した非常に質素な大会だった。

 

その時の開催は前述のCNARとRAC(Reflexology Association of Canada)の共同開催のように、その時もらったCommemoration of Friendshipに書いてある。



後になってこのときの大会がICRの第1回大会として、位置づけられたのではないだろうか。 

 

 

 ICRは1999年にハワイで7回目の大会を開いているが、その時には英国式リフレクソロジーの藤田氏一行、足健法のO氏、そして若石神父も参加したと聞いている。

 

(クリスティーン・イッセル女史を紹介しているホームページは以下)http://www.quantumreflexology.com

 

 

 


バーバラ&ケヴィン・クンツ夫妻
はニューメキシコ州のアルバカーキに住み30年以上もリフレクソロジーの研究と普及に活躍している。

 

1980年に出版されたThe Complete Guide to Foot Reflexologyを初めとして、十数冊に上る彼らの著書は18ヶ国語に翻訳され、世界30数カ国で発売されており、多くのリフレクソロジストのテキストとして読まれている。

 

日本でも1989年にThe Complete Guide to Foot Reflexology「完全ガイド・足のリフレクソロジー」として、フレグランス・ジャーナル社から発売された。

 

その訳者は日本におけるリフレクソロジーの先駆者として有名な五十嵐康彦氏(足のゾーン・セラピー/主婦の友者/1985の著者Kevin_and_barbara_kunz

である。

 

クンツ夫妻は、ハンド・リフレクソロジーの研究者としても有名で、多くの著書がある。

 

現在ヤフーのreflexologycommunityを主催しネットでも活躍している。(クンツ夫妻を紹介しているホームページは以下)http://www.reflexology-research.com/aboutus.htm 

 

 私はいまになって非常に残念に思う。

 

当時の自分が本物のリフレクソロジストでなかった事を。

 

リフレクソロジーを利用して利益を上げようとしていた会社の中心にいて、リフレクソロジストのふりをしていた事を。

 

会社も私も、世界大会でのアメリカからの3人との出会いを全く生かしてこなかった。

 

湧泉を開業して、お客様の足をもむ事を生業にしてきて改めて思う。                                    2008/07/22                     

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足つぼ(リフレクソロジー)との出会い・・・6

若石健康法東京世界大会で日本代表を務めた後、私は若石健康法の事業本部長に任命された。

 

 

その名も21事業本部と云い、若石健康研究会、全国の21若石センターを束ねて、若石健康法のファンの集い21ファミリークラブを組織し、スーパー、デパートでの健康機器の販売部門とは別の安定した事業を確立するのが目的であった。

 

 

 21ファミリークラブの会員になると、年会費を払い、「ウォーク」と言う会員誌が送られてくる。

 


会員誌で啓蒙された会員は健康講座の受講や、商品の購入で、売上に貢献してくれるという構想だった。

 


会員誌ウォークの毎月の編集だけとっても、健康機器の販売会社の社員であったスタッフにとっては、当初は非常に大変な仕事であった。

 



後に編集の仕事は小さな企画会社でアウトソーシングすることになった。

 

 

 健康に不安があって若石健康法に頼ってきた人たちが、必ずしも、年会費を払ってまで会員になってくれるというものではない。

 


足もみ料金を取らないので、代金代わりに付き合ってくれるのである。

 

会社の思惑どおりにはなかなか会員数は増えなかった。

 

 

 それにしても、仕事の量だけは大変なものだった。

 



全国各地での講演会は台湾から執行会長を呼んで数十回も開催した。

 

通訳が入っての講演なので、間合いが難しくなかなか盛り上がらない。

 

官有謀氏の日本語での独特な講演とは比較にならなかった。

 

 

 

世界大会の翌年1991年には第1回の21ファミリークラブの日本大会を開いた。

 



若石神父はもとより執行会長、創会人他大勢を招待し、ソニーや資生堂の役員まで招待した。

 



マスコミ対策用に、テレビ番組の制作会社にビデオ制作を依頼した。

 

それが半年後大いに役立った。Photo

 

 

 

資生堂が開発した健康遊歩道が報道番組スーパータイムの特別企画に取り上げられたのである。

 

健康遊歩道は若石健康法に基づいて造られたものである。Photo_2

 

若石健康法の説明が詳しく報道された。

 

日本大会のビデオが大いに役立ったのである。

 

視聴者からの反響がすばらしく、今度は若石健康法そのものが、すぐに特別企画で取り上げられたのである。 Photo_3

 

 

 

 スーパータイムの企画構成はすばらしいものだった。

 

◇初めに安藤優子キャスターが研究会を訪れ、

 

足をもまれる場面から 始まり、痛さに悲鳴を上げる。

 

◇若石健康法の紹介を、日本大会でのビデオをつかい神父の挨拶、陳兄弟の紹介、大会の映像などから始める。

 

◇反射区図表を非常に詳しく説明する映像。

 

◇ソニーの東洋医学研究所の医師による、

 

胃の反射区を揉むことにより、注射で動きを止めた胃が、Photo_4

動き出すセンセーショナルな映像。

 

◇馬込ファミリークラブの活動と、会員による効果の体験報告。

 

◇明治鍼灸大学の教授の効果の解説など。

 

◇最後に安藤キャスター「自分で毎日行うことが大切」と締めくくる。

 

 

 反響はものすごく、3日間は問い合わせの電話が鳴りっぱなし、準備不足で満足な対応が出来ないほどだった。

 

それまでは、テレビで取り上げられても、バラエティ番組などでタレントの足を揉み、痛さに身もだえ、絶叫するのを面白おかしく放映するだけのものだった。

 

きちんと紹介された画期的な出来事だった。

 

 

 しかし「自分で毎日行うことが大切」トラウマになっていくのである。

 

                                        2008/08/09

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石巻産塩わかめ

かに棒サラダを作ろうと思った。


材料はきわめて簡単。
かに棒一袋、きゅうり一本、塩わかめ、そしてしらす干し。


そして食べるときレモンをかけるだけのシンプル味。


かに棒をそしてきゅうりを切りながら「久しぶりに作るな」と思った。


日常の中で当たり前に作っていたものが
3.11の東日本大震災でわかめが手に入らなくなった。


生協で何気なくとっていたものが、ある時からカタログに載らなくなった。
あるのは韓国産ばかり。


乾燥ワカメがあるさと乾物類の棚をがさごそ。


わかめは好きなのでよく使う。
でも何かが違う。


でもそんなに気にせずに過ごしているうちに
(わかめの使用量がかなり減っていた)
少しずつ三陸沖の、韓国産でない、わかめが生協のカタログに載るようになった。


ニュースでもわかめ漁のことをやっていた。
応援したくってなんておこがましいこと言わないが、おいしいんだ本当に。
そして柔らかくって、面倒くさがりの私にはひったりの即効柔らかさを出してくれる。
    wisteria

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