1990年若石健康法東京世界大会
第2回目の世界大会を東京で運営する事になった会社は
若石健康法を日本でアピールする最高のチャンスととらえた。
官有謀氏の足心道から若石健康法に乗り換えたばかりなので、
足の健康法を販売の拠り所にしている営業社員や、
21若石センターと名を変えた各地の相談室のお客様、
センターを支援してくれる有力者に、若石健康法こそが、
本家本元であり、国際的な広がりを持つ団体であることを
確信してもらう最高の機会だと位置付けたのである。
また台湾の本部や、各国支部に対しても確固たる地位を
確立する必要があった。
それにスーパー、デパートでの健康機販売の拡大や信用の
増大にも大会を活用することを考えた。
各地の支店営業所に号令をかけ、参加者を集い、
毎年恒例の社員大会も世界大会と同時開催、
取引先のスーパー、デパートのバイヤーや幹部を積極的に招待した。
結果莫大な費用をかけることになった。
現在は足健法の日本代表であるO氏は社員の中から
準備委員長に任命され大会運営の企画を担当した。
ディズニーランドのある浦安のNKホールで、
オープニングセレモニー、シェラトンホテルで学術検討会と
ウェルカムパーティー、さよならパーティー、社員大会等が
行われる事になった。
国際若石健康研究会本部の要請で海外からの参加者を
300人以上にする為参加費用の援助の要請も受けた。
ところが、大会直前になって、大きな問題点が出てきた。
NKホールでのオープニングセレモニーへの参加者が、
目標5,000名に対し2,000名にも満たないのである。
全社員に働きかけ家族、友人などを急きょ動員した。
参加者リストは約3,000名になった。
NKホールのは6,300名が定員であったので、
2階席を封鎖し、どうにか形だけは保つ事が出来た。
もう一つの問題点はマスコミへの根回しだった。
案内状は送ったものの、詰めが甘く、取材に来てくれる
ところは皆無であった。
直前の働きかけではどこも動かない。
莫大なお金をかけて開催するのに
社会に対するアピールが出来なかった。
非常にもったいないことであった。
マスコミ対策の担当者はしばらくして会社を去った。
会場が真っ暗になり音響とともにレイザー光線が
駆け巡って、正面のスクリーンに青い地球が大写しになり、
数分の間、「若石健康法の愛は人類を救う」をテーマにした
イメージ映像が映り続けた。
オープニングセレモニーの始まりである。
感動的デモンストレーションが終ると、再び会場が暗くなり
しばらくしてスポットライトは正面を照らした。
大会議長を中心にして各国の代表が
ひな壇に並んだデスクに座っている。
日本代表の席には私が座った。
こうして1990年若石健康法東京世界大会がはじまった。
大会の初日は、NKホールでのオープニングセレモニーと
シェラトンホテルでのウェルカムパーティ、
二日目は、学術検討会、
三日目は、学術検討会とサヨナラパーティだったと思う。
東京大会の特筆すべきはなんと言ってもWHO幹部の
オブザーバー参加であり、若石健康法へのメッセージであった。
グンダー・リーベスヴァール博士(WHO執行委員会委員、
オーストリア公衆衛生局総裁、医学博士)の代理人として
参加したシーグリンド・ワインバーガー博士よりのメッセージは
「1、若石健康法の努力は、WHOの健康全般に於ける目標を
実現するものです。
2、人類は自ら責任を負って、自分で健康づくりを行うことが
必要であり、またその力を励ましていくべきです。
3、伝統医学と現代医学は、共同研究を通じて、より融合されて
いくべきです。」
と言うものだった。

国際若石健康研究会と日本の事務局(会社)はこれを
錦の御旗として最大限に活用する事にした。
記念の額(写真)を作り世界中の関係者に販売して、
国際的権威から認められたと、いまだにアピール
し続けている。
学術検討会は研究発表よりも、若石健康法のすばらしさを
たたえる体験発表や活動報告などが多く、あまり記憶に残るものがない。
資生堂のA氏の健康遊歩道の開発報告が目立ったように思う。
ともあれ3日間お祭ムードで終始した。
最後に次回の開催国マレーシア代表に大会旗を渡して、
1990年の東京世界大会は幕を閉じた。
大会のオブザーバーとして、3人のアメリカのリフレクソロジストがいた。
クリスティーン・イッセル女史とバーバラ&ケヴィン・クンツ夫妻である。
私のハワイの友人H氏がコンタクトしてくれた3人をオブザーバー
参加してもらう事に、若石本部はあまり関心を示さなかった。
日本側の招待だということでOKをとり、3人を招くことにした。
クリスティーン・イッセル女史は当時カリフォルニアのサクラメント
に住みCouncli of Noth American ReflexologistsのAdministrator
として活動していた。
後にICR(International Council of Reflexologists)
を立ち上げ,世界的な組織の生みの親として第一人者として活躍している。
第1回のICRの世界大会は1990年の9月29日にカナダの
トロントで開かれた事になっているが、このときにICRを
立ち上げたのではないかと、最近になってICRのホームページ
を見て思った。
実は私と妻は東京大会への招待のお礼としてトロントの
北米大会に イッセル女史から招待されたのである。
若石の東京大会とは違い、研究発表や、活動報告に
終始した非常に質素な大会だった。
その時の開催は前述のCNARとRAC
(Reflexology Association of Canada)
の共同開催のように、その時もらったCommemoration of Friendship
に書いてある、後になってこのときの大会がICRの第1回大会として
位置づけられたのではないだろうか。
ICRは1999年にハワイで7回目の大会を開いているが、
その時には英国式リフレクソロジーの藤田氏一行、足健法のO氏、
そして若石神父も参加したと聞いている。
(クリスティーン・イッセル女史を紹介しているホームページは以下)
http://www.quantumreflexology.com
バーバラ&ケヴィン・クンツ夫妻はニューメキシコ州のアルバカーキ
に住み30年以上もリフレクソロジーの研究と普及に活躍している。
1980年に出版されたThe Complete Guide to Foot Reflexology
を初めとして、十数冊に上る彼らの著書は18ヶ国語に翻訳され
世界30数カ国で発売されており、多くのリフレクソロジストのテキスト
として読まれている。
日本でも1989年にThe Complete Guide to Foot Reflexologyは
「完全ガイド・足のリフレクソロジー」として、
フレグランス・ジャーナル社から発売された。
その訳者は日本におけるリフレクソロジーの先駆者として有名な
五十嵐康彦氏(足のゾーン・セラピー/主婦の友者/1985の著者)
である。
クンツ夫妻は、ハンド・リフレクソロジーの研究者としても
有名で、多くの著書がある。
現在ヤフーのreflexologycommunityを主催しネットでも活躍している。
(クンツ夫妻を紹介しているホームページは以下)
http://www.reflexology-research.com/aboutus.htm
私はいまになって非常に残念に思う。
当時の自分が本物のリフレクソロジストでなかった事を。
リフレクソロジーを利用して利益を上げようとしていた会社の
中心いて、リフレクソロジストのふりをしていた事を。
会社も私も、世界大会でのアメリカからの3人との出会いを
全く生かしてこなかった。
湧泉を開業して、お客様の足をもむ事を生業にしてきて
改めて思う。
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